バックレーさんのカードマジックにまつわる話

noteに投稿したものです(*゚ー゚)

アーサー・バックレーの著書『Principles and Deceptions』より。

これはカードマジックの章の序文として添えられている文章なのですが、その内容は、書かれた当時よりもむしろ「現代」においてこそ、より切実に響く問題提起であると感じました。

私たちが直面している現状と照らし合わせながら、ぜひ色々と考えてみていただければと思います(゜Д゜)

※用語の表記について
バックレー氏は、マジック作品を「トリック」などと呼ぶのは不適切であると考え、一貫して「イリュージョン」という言葉を使用しています。

本稿の翻訳でもその意図を汲み、「イリュージョン」と表記しています。一般的な「大型手品」や「錯覚」という意味ではなく、「マジックの作品そのもの」を指すバックレー独自の用語定義としてご理解いただければ幸いです。

ゆき
ゆき

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第三章序文—カードマジックについて(FOREWORD TO THE CHAPTER THREE—CARD MAGIC)

あるマジシャンであり著述家でもある人物が、 「カードトリックは卵と同じで、 良いか悪いかのどちらかしかない」と述べています。 しかし私は、 この考え方に同意できるほど想像力を働かせることができません(私は、 この比喩自体が誤りであると考えています)。

私の経験に照らせば、 カードマジックはその本質的な解釈において、他のいかなるジャンルのマジックとも何ら変わるものではありません。 マジックであるためには、まず第一にそれが「イリュージョン」でなければなりません。 もしイリュージョンとして成立していないのであれば、それはもはやマジックではないのです。 そして、 もしそれが真にイリュージョンであるならば、それは必然的に「良いもの」になります。 なぜなら、 カードトリックがイリュージョンとして成立するためには、 その質が良くなければならないからです。

しかしながら、 現実には、カードマジックはしばしば陰鬱で冗長、かつ退屈な方法で演じられています。 私が最大の欠点であると考えるのは、この平凡で拙劣、あるいは著しく質の低いプレゼンテーションに他なりません。

優れたエフェクトを生み出すためのあらゆる要素が、多くのマジシャンの前に全く同じ条件で提示されたとしても、 彼らはそれぞれ異なる解釈と方法でそれを演じることになります。 たとえ動作や手法が物理的に全く同一であったとしても、そこから得られる結果には天と地ほどの差が生じるのです。

これは、 それぞれの演者が自らの個性を演技に反映させるためであり、そのエフェクトは演者の技術、 スタイル、そして経験の深さによって、 無惨に損なわれることもあれば、芸術の域まで高められることもあります。

ある演者の手にかかれば至高の エンターテインメントとなるものが、 別の演者が演じた途端に、 退屈の極みともいうべき代物に成り下がってしまう。 しかし、 これはマジックに限った特別な話ではありません。 音楽、絵画、歌唱、舞踊、 そしてマジック――あらゆる表現芸術において、全く同じことが言えるのです。

さらに重要な点として、「カードマジック」の中には習得が容易で、手技をほとんど、あるいは全く必要としないもの、 いわゆる セルフワーキング・イリュージョンが存在します。 私は、これらを生み出すために費やされた創造的思考や、 その秘密を守り抜くための演出技術という側面については、十分に評価しています。

しかし、あえて繰り返しますが、これらはマジシャンとしての揺るぎない評価を築くための基盤とするには、あまりに脆弱です。 なぜなら、その不思議さの強度が完全に「秘密」 のみに依存しており、 その秘密はあまりにも容易に暴かれてしまうからです。 一度仕掛けが明るみに出れば、 多くの場合、 観客は「なあんだ、 そんなことか。それなら私にだってできる」と口にすることでしょう。

誤解しないでいただきたいのは、 私はイリュージョンを生み出す際に、常に困難な手法のみを選択すべきだと 考えているわけではありません。 それは 私の本意とは最も遠い考えです。

私が主張したいのは、 カードマジシャン としてその名声を生涯保ち続けたいと願うのであれば、いかなるカード・イリュージョンであっても自在に演じられるだけの、 盤石な技量を身につけるべきである、ということなのです。

そもそも、主要なスライトがいったい幾つあるというのでしょうか。 おそらく、せいぜい10程度でしょう。 もちろん、 個々のバリエーションや手法自体は無数に存在しますが、私はそれらすべてを何通りも習得すべきだと言っているのではありません。

肝要なのは、 1つの方法を完全に身につけ、 それを完璧にディセプティブに行えるようにすることです。 それができていれば、同じ目的を達成するために、わざわざ新しくて複雑な方法をあちこち探し回る必要などないのです。

最も完全な錯覚を生み出せる手法を見出すべきですが、もし、それを見破られないレベルまで十分に練習し、 説得力を持って演じられる技量に到達する覚悟がないのであれば、最初からその手法を選ぶべきではありません。 さもなければ、 あなたはマジシャンではなく、単なる「不器用な実演者」に成り下がってしまうからです。

人がプレゼンテーションの才能を生まれつき備えている場合は別として (しかし、アマチュアのマジシャンにとってそのような幸運は稀なことです)、プレゼンテーションとは、 単に観客の前でイリュージョンを実行する以上に、 はるかに重要な意味を持つものであると気づくはずです。 ただ繰り返し行えば、いつか自然と芸術的な演技になるだろうと期待して漫然と続けているだけでは、 確実に大きな失望に直面することになります。

まず第一に、 あらゆる細部を注意深く分析し、 言葉と動作の双方において、 不要な要素をすべて排除しなければなりません。 言い換えれば、全体の構成を極限まで洗練させ、 そのうえで、 それが自分にとって最も自然な振る舞いであると感じられるまで練習を重ねる必要があります。

そして、 その域に達するための真の洗練は、 公の場で実演を積み重ねるという長い経験によってのみ、もたらされるものなのです。

マジックの世界で成功を収める者とは、まず細部に至るまで徹底的に注意を払い、その後に倦むことなく練習を積み重ねる人物です。 これには極めて強い精神的規律が求められます。 自分の 「準備が整った」という判断が、 単なる焦りからではなく、 理性の裏付けをもって下されたとき――そのときにこそ、 初めて公の場で演じてみるべきなのです。

最初から多くを期待してはなりません。 観客は時に厳しく批判的ですが、それこそがマジシャンにとっての真の試金石となります。

たとえ劇場での上演を目指しているわけではなく、 マジッククラブ などで仲間のマジシャンに披露するだけであったとしても、この助言に耳を傾けることは、 あなた自身の評価を高め、 ひいては 「芸術としてのマジック」 の地位を向上させることにつながります。

そして、その取り組みを始めるのに、今この瞬間以上に最適な時はありません。

もし私が一般の観客に向けたアクトを構成するとすれば、 まず最初に、優れたスキルと芸術性を備えた演出であり、 かつ上演が予定されている会場の条件に十分適合するいくつかのイリュージョンを選定します。これらは、自分の現在の能力で十分に対応できるものであるか、 あるいは少なくとも、 自らの限界を押し広げてでも習得する不退転の決意があるものでなければなりません。

次に、 それらをどの順序で配置するかを (少なくとも暫定的に)決定します。 その際、 オープニングを飾る最初のイリュージョンは、明るくテンポが良いものであり、観客の注意を瞬時に引きつけ、かつその興味を最後まで持続させられるものである必要があります。

ただし、ここで注意すべきは、 最初からあまりにも優れたものや、 不可能性の度合いが高すぎる演目を持ってこないことです。 なぜなら、その後に続く演目が比較によって見劣りしてしまい、 結果として アクト全体が尻すぼみで滑稽なものに見えてしまう恐れがあるからです。

例えば、「ジョー・バーグ・デック(Joe Berg deck)」を用いた奇跡的なエフェクトを最初に見せておきながら、 その次には、 選ばれたカードを探し出すためにデックを 1枚1枚注意深く調べなければならないような手順を演じる――といったケースです。

このような構成を組むマジシャンは、 観客がそれをどう受け取るかを一度でも考えたことがあるのでしょうか。 観客は間違いなく、「最初の現象は仕掛けのある道具によるものであり、 その仕掛けがない場合には、 この男は大したことができないのだ」と結論づけるに違いありません。

プログラムに用いる イリュージョン を選定した後は、 クライマックス を明確に定めます。 それは演技の流れから自然に導き出されるものでありながら、 驚きに満ち溢れ、幕を下ろす瞬間にふさわしい鮮やかなものであるべきです。

これらすべての要素が整ったならば、 実際に練習を開始する前に、 この演目が本当に無駄のない、 洗練されたものとなっているかどうかを確認するために、 持てる限りの注意力、判断力、そして忍耐力を注ぎ込むべきです。

それとも、これらはあまりにも手間がかかりすぎるとお考えでしょうか。 もしそうであるなら、この本はすぐに売ってしまい、少しでも元を取り戻した方がよいでしょう。 なぜなら、 真のマジシャンになるために必要な資質を、 あなたは備えていないことになるからです。 おそらくはその他大勢の群れの中に埋もれたまま、平凡な実演家として過ごすことになるでしょう。

どうか、自分に言い訳をしないでください。本当にマジックを志すのであれば、練習し、さらに練習し、そしてまた練習する――道はそれしかないのです。

同じ原理を基礎としていながら、 その手順(プロット)がまったく異なるために、観客の視点からは共通点がほとんど見られないイリュージョンは数多く存在します。

この点は、 本書で解説されている「カード・トゥ・ポケット」(10枚のカードが1枚ずつ演者のポケットへ移動する現象)や 「30枚のカードと2人の助手」 (1人の観客のポケットから、 別の観客のポケットへ5枚のカードが移動する現象)、 「テン・アンド・テン」(演者が持つ10枚のカードから、 観客がハンカチの下で保持している10枚のパケットへ3枚のカードが移動する現象)において特に顕著に示されています。

これら3つのイリュージョンは、 演出や手順の面では完全に別物に見えますが、 その核心はいずれも「移動」という同一の原理に基づいています。

実際、 これらは表現のあらゆる点において異なっているため、 同一の演者が同じプログラムの中でこれらすべてを演じたとしても、 観客に重複を感じさせることなく、十分に効果的なエンターテインメントとして成立させることが可能なのです。

したがって、 同じ原理に基づくすべての イリュージョンが似通ったものになると考えるのは誤りです。 実際、 その仕組みを十分に理解しているはずのマジシャン自身でさえ、 優れた手順 (プロット)の妙によって、 同一の原理に基づく現象に戸惑わされることすらあるのです。 ゆえに、同じ原理を繰り返し用いることを安易に軽視すべきではありません。

しかしながら、 アクトに多様性を持たせ、異なる原理を織り交ぜることが有利であるのもまた事実です。 「消失」のあとに「出現」が続くような構成は、時として「移動」現象との区別が曖昧になることもありますが、 一方で 「復元」「貫通」「浮遊」 といった現象は、観客に明確な変化と刺激をもたらします。

賢明な演者は、 自らが持つあらゆる技術的手段を、 その場に相応しく、かつ最大限に活用すべきなのです。

しばしば、カード、コイン、ボールを用いたシンプルなイリュージョンが、 習得に数ヶ月を要するような難易度の高いものよりも、 むしろ高い効果を発揮する場合があります。 しかし、これは一見魅力的に思えますが、決して単純な利点ばかりではありません。容易に実行できるイリュージョンには、特有の欠点が潜んでいるからです。

例えば、 そうした演目はその欺瞞性や説得力の高さゆえに、 登場した当初は非常に大きな人気を博します。 しかし、 容易であるがゆえに多くの演者がこぞって取り入れ、結果として世に溢れかえってしまいます。 やがてその価値は摩耗し、技術あるマジシャンとしての誇りと評価を重んじる者たちからは、 見向きもされず捨て去られてしまうのです。

こうした理由から、 かつて廃れた優れた演目が、何年も経ってから「再発見」され、一時的な流行を繰り返すという現象が起こります。

だからこそ、 私はあえて不断の練習を要する高度な技術を習得することを強く勧めます。 そのような技術に裏打ちされた芸は、マジシャンの間で安易に広まりすぎて価値を失うということが、極めて少ないからです。

また、 あるイリュージョンが一見すると非常に難解に見える場合でも、 実際には「コツを掴むまで」が困難なだけであり、 一度その核心を体得してしまえば、 回を重ねるごとに驚くほど容易に実行できるようになるものもあります。 そして、 自らの真摯な努力によってその技量を血肉としたとき、 あなたはマジシャンとしての正当な誇りを胸に刻むことができるのです。

この点はどれほど強調してもしすぎることはありません。 それほどまでに、マジシャンにとって重要な意味を持つものです。少し立ち止まって考えれば、 誰にでも理解できるはずです。 歴史に名を刻む卓越したマジシャンたちは皆、 例外なく スライト・オブ・ハンドに熟達していました。

ここで言うスライト・オブ・ハンドとは、 単に タバコやカード、コイン、ボールを次々とプロダクションするといった表面的なパフォーマンスを指すのではありません。 カード、コイン、ボールを用いたあらゆるイリュージョンの根幹を支える、各種の基礎技法そのものに精通し、自在に操っていたという意味なのです。

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