ただの日記:2020/07/14
2020/07/13近辺 Twitterで話題になっていたことについて
ツイッター上で何やら流行っていた話題があったのそれについてでも。
簡単に言うとこんな感じの話題。
観客からの意見
2、ポーカーのルールや役を知らなかったのでマジシャンに伝えた。
3、マジシャンにポーカーも知らないの?的なことを言われた。
ということのようだ。
この状況だけでは観客もマジシャンも批難のしようがないですね。
これらの情報だけで観客orマジシャンの批判に走るのは、都合の良いようにマスコミに切り取られた言葉だけを見て踊らされてる愚民と同レベルでしょう。
一次情報を確認しないで文句垂れてる人と何が違うのか説明して欲しいです。
まず、観客側からの視点・意見しかありません。
マジシャンが「ポーカーを知らないんだ、って事実をそのまま言っただけのつもりだった」という可能性もありますし、この状況では観客側が「マジシャンに馬鹿にされた」と感じる場合があるのも分かります。でもこれはどちらにしろ一方的な意見であり、基準にするには些か雑ではないですかね。
最初の情報から確定で分かるのは
2、観客は知らないと答えた
これだけじゃないんですか。
知らないと答えた観客はもちろん、マジシャンも、これだけでは批難されるべきではないでしょう。
もし批難されるべき人間が居るとしたら、少ないソースを根拠に攻撃をはじめた第三者達ではないんですか?
こんな一方の主観によった話題から、論点すらもまともに考えている人が居ない状態から議論をはじめてもgdgdになるのは目に見えている、というのが最初のわたしの考えでした。
とまぁ、ここまではどうでもいいこと。
ポーカー・デモンストレーションの問題点の洗い出しや、状況に応じた観客への対応、ポーカー知らない人でも楽しめる構成なんていう部分に関した「ポーカー・デモンストレーションを効果的に演じるアイディア」を目的にした議論になる気配でもあれば参加したいところでしたが、それは望むべくもないと思ったので勝手にやりますん(一部でそんな動きもあったようですが、多分不毛だろうと感じて手を引いたんでしょうかね、残念)。
マジシャンがポーカー・デモンストレーションを演じる際に障害となるものは何か?
カードマジックのプロットとして根強い人気のあるポーカー・デモンストレーションではありますが、同時に嫌いなマジシャンも多かったり、好きだけど観客相手には演じない、といった声もあるようです。
ポーカー・デモンストレーションを演じない理由はどこにあるのでしょうか?
その辺りを少し考えてみます。
(ちなみにですが、マジシャン+観客四人の計五人に対してカードを配るというオーソドックスなポーカー・デモンストレーションを想定しています)
・演じる場所に制限がある
・繰り返しの行動が多い
大きくはこんなところでしょうか。他にもあるかもしれませんが、とりあえずこの辺りから考えてみましょう。
演じる場所の制限
まずは「演じる場所に制限がある」から
カードに関わる操作諸々のためマットは欲しい。五人に配れるだけのマットの広さは欲しい。マジシャンは座っている状態が良い。
この辺が場所に関するウィークポイントかなと思う。
ストリート・マジックではまず無理、立食パーティーのようなシチュエーションも無理、テーブル・ホッピングだと少しやりづらく、それ以外だとクロースアップのカードマジックと同じくらい。というところかね。
確かに制限はあるが、それを理由にするには少し弱いように思える。
同程度の制限がかかるトリックなんて他にも多数ある。アンビシャス・カードのようなどこでも気軽に演じれるトリックが特殊なのだ。
この問題の優先度は低くし後回しにするのが無難だと判断する。
繰り返しの多さ
ポーカー・デモンストレーションにありがちな「配る」動作であるが、手順にもよるが結構な回数繰り返すものが多い。
配るという動作は観客からすればゲームの「準備段階」であるため、原案通りそのまま演じようものならば、観客からしたら「いつはじまるんだ」と思われてもおかしくない。
わたしはかねてより、別言語のマジシャンがどんなに素晴らしいポーカー・デモンストレーションを演じていようが「つまらない」と感じることが多かった。
しかし、日本語による通訳や日本語字幕があれば話は別で、一転して面白いと感じた。
これはおそらくだが、ポーカー・デモンストレーションはサスペンス・エフェクトとしての側面が大きく、雰囲気のコントロールをセリフに大きく依存しているため、そう感じたのではないかと思っている。
つまり、配る動作の繰り返しを退屈だと考えているのであれば、配る動きを「観客が次に起こることを期待する間」にしなくてはいけず、セリフをサスペンスに沿った最適化をするといった対策や、それが不可能であれば配る動作を最小限にしたり、サプライズ・エフェクトとしての「何か」付加する。といったことが必要なのではないかなぁと感じた。
配る動作に入る前に「予め何をするのか説明してしまう」や「クイッキーな構成にする」なんかが最も手っ取り早い対策なのかもしれない。
あとは各々考えてみて欲しい。
観客がポーカーを知らない
観客がポーカーを知らないから伝わらない、というケースについて。
このケースは
・ポーカー・ハンドの強さの優劣が現象に関係する(観客の手札ツー・ペアのときにスリー・カードで勝つ等)
・観客の要求した役を瞬時に作る(観客が知らないので要求なんぞ出来ない)
・観客に必要なカードを選ばせる演出(一部のテンカード・ポーカー・ディールであるような)
って辺りの現象が当てはまるだろうか?
ふむ、「ロイヤル・ストレート・フラッシュ」を知らない人は当然居るだろうが、ここが問題になってくるのは正直あんまりないと思っている。
トランプというものを実際に触ったことがある、というレベルであれば障害にはならないだろう。
過去、トランプを触ったことはあるけどポーカーは知らない小学校中学年&低学年の子達に、気は進まなかったが4枚のAを出した後にロイヤル・ストレート・フラッシュを出してみたことがあるが、バカ受けであった。
子どもたちは勝手に、すべてのカードが同じマークな事、しかも順番になっていることに気づいたのである。
突然何の脈絡もなく「ロイヤル・ストレート・フラッシュ」を出すのは、手役を知らない人からすれば意味を理解するのに時間を要する行為であり、驚く前に理解するための間があるためサプライズにはなりえない。
気づいて驚いてくれたとしても、間違いなく減衰しているとわたしは考えている。
この部分が問題点になっている場合は「演出の見直し」をまず行う。それでも駄目だったらまた考えようか。
4枚のAとかにすればいいかもしれないが、それならわざわざポーカー・デモンストレーションという形態じゃない方が良いケースの方が多いので、少し「現象」から根本的に考えたほうが良さそうである。
・・・・・・。先にあげた4つの内、ラインを引いた3つなのだが、
・ポーカー・ハンドの強さの優劣が現象に関係する(観客の手札ツー・ペアのときにスリー・カードで勝つ等)
・観客の要求した役を瞬時に作る(観客が知らないので要求なんぞ出来ない)
・観客に必要なカードを選ばせる演出(一部のテンカード・ポーカー・ディールであるような)
この3つは基本的に「ポーカーの手役を知らない人には演じないようにする」に越したことはないように思える。
ただし「やったことはないんですけど、興味あるんですよね!」というマジシャンからすると天使に見えるような観客が極稀に出現するのですが、このケースに遭遇したときのための準備はするに越したことはないので、これを考えましょう。
チャンスは準備をしてたやつのところに来る。ですよ!
まずはマジシャンがポーカーのルールを熟知していること。これ必須ですね。
世界のトレンド的にいうならば、テキサス・ホールデムが8割とか聞いてます。これがプレイ出来ないとか論外です。知らない人はマジシャン辞めてください。パソコン使えないプログラマーと同じレベルです。
テキサスホールデムはフロップ・ポーカーの一種で、他にもオマハホールデムとかありますけど、出来れば覚える、最低でも名前くらいは知っておくべきだと思います。
また今でこそ衰退していますが、俗にドロー・ポーカーと呼ばれるクローズド・ポーカー系は一通り熟知しておきたいですね、オープン・ポーカーも当然理解必須です。あと個人的に思うのですが、読み合いをするのであればクローズドよりもオープンの方が良い気がするのですけどどう思われます?
え?覚えたくない?・・・マジシャンなんて辞めちまえ(`Д´;)
次に、観客に知ってほしい事「ポーカーハンドの種類と強さ」。
ですが口頭での説明は、たとえ興味のあることでも辛いものです。フリップに一覧を作っておくのとか良いのではないでしょうか。
ちなみにですがわたしは説明厨なので、要点をまとめたフリップとか作るの大好きです。
この一言を言うためだけにこの記事を書いてると言っても過言でもありません。
そういえば「のりパネ」と呼ばれる素敵アイテムがあるんですけどこれを知ったとき涙しましたね。
これ知る前までは画用紙にノリで貼ってました。
喫茶店などに行くと、タブレット等に資料を映してお金儲けに関する事を楽しそうに話している人達を目にすることがあります。
あの感じです。アレを見習いましょう。やってることは手品も一緒みたいなものです。
ここまで書けばもういいでしょう。
知らない事を一緒に楽しむにはどうしたらいいか?そういうことなんじゃないかと思いますね。
嫌そうなら押し付けずに静かにひく。
興味をもってもらえそうなら分かりやすく楽しい部分を説明する。
難しいこと考えなくても、そういう考えがあるならどうにでもなるのではないでしょうか。